キズナアイ事件

NHKのノーベル賞解説番組に出演したキズナアイについて数多くの言及がなされている。走り書きになるが、所感を綴っておく。

争点

  • ❶キャラクターの造形
  • ❷性別による役割の固定化を招く描写

❶見た目の造形

見た目が許容範囲かは個人の感覚に依存しており、客観的な判断基準を安定して提供する仕組みが望まれる。例えば、CEROやAppStoreのようなゾーニング策を検討すべきだろう。

自由にやりたいひとと、厳しく取り締まりたいひとが並存している以上、ゾーニングに頼るほかはない。その場合、公共放送は最も厳しい部類に入るだろう。

❷性別による役割の固着化

造形ほどの明確なゾーニングは不要かもしれないが、立ち居振る舞いにも規律が求められる。

もしキズナアイ本人の設定が「馬鹿なふりをしたほうが可愛い」という旧来的な価値観を踏襲しているとすれば、番組の演出うんぬんに留まらない話になるため根が深い。個人的にはキズナアイにその傾向がないとは言い切れないが、ちまたにあふれるコンテンツに比べると少なくとも「即アウト」な範囲には入らないはずだ。

また、未完成なジャンルを切り開くときに「未熟さ」は受け手の心情を和らげる効果が期待できる点も考慮したい。例えば子供の見た目のロボットなら失敗しても許せる。その場合、見た目と行動の成熟度を調整する必要がある。具体的には(是非はともかくとして)、老成している子供は好意的に受け取られるが、幼稚な成人は軽蔑されがちである。

キズナアイの設定は16歳と微妙な年齢である。これをもって「馬鹿でも許される」と結論するのは稚拙だ。旧来的な価値観を再生産する側に回ってしまっていないか、緊張ある演出を模索し続ける必要はあるだろう。

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